ケータイ小説家になる魔法の方法

  • 〜女子高生でもベストセラー作家になれる!〜
  • 監修:魔法の i らんど
  • 著者:伊東おんせん
  • ゴマブックス株式会社
  • 2007年1月10日初版第1刷発行

 ケータイ小説というのは結局なんなのか、ということで多くのケータイ小説を掲載する Web ページを提供している「魔法の i らんど」の中の人が書いたというので読んでみた。
 いろいろと書いてはあるけれど、結局のところケータイ小説でなければならない点というのは、第 3 章「ケータイ小説の喜びと苦悩」において 103 ページの最終行から触れられている“スピード感”に尽きると思う。

 第 2 章「書いてみる? ケータイ小説」の始まる 39 ページから引用すると、

1. センテンスが比較的短く、かつリズミカルに重ねられている
2. 改行、行間の使い方に独特の間、テンポがある
3. 「会話文」に独白があしらわれ、説明的な文章が少ない
4. カッコなどの使い方に工夫がほどこされている

 これらが、ボクから見たケータイ小説の全般的な共通点です。

 引用中「ボク」とは著者の伊東氏のことである。
 1. と 2. に関しては、読みやすさの工夫として、携帯電話のいち画面に収まらないような長文や、いち画面を文字で埋め尽くしてしまうような長文を書かず、また空行を頻繁に、数行分ずつ入れるということだ。
 3. に関しては、あまり触れられていなかったので、いまいち良く分からない。「「会話文」に独白があしらわれ」るという状況からして、どういうものを指しているのか不明のうえに、「会話文」と鍵括弧に入れられていることに意味があるのかも、良く分からない。
 もしかすると、47 ページにある次の引用文のようなことを指しているのかもしれないが、結局良く分からないままだ。

さらに、セリフの後に“↓”といった下向きの矢印を入れることで、主人公の気持ちの落ち込みぶりが一目瞭然。

 確かに落ち込んだのは分かるとしても、落ち込みぶりまでは分からないのだが、まあそれは置いておくとしよう。
 4. に関しては、「」や『』で囲むものが何かということが作品ごとに明確に決められており、一人の発言は「」を、複数人の発言は『』を使うであるとか、主人公の発言は『』を、他の発言は「」を使うなどが具体例として書かれている。
 これに関しては、私が個人的に見たケータイ小説の中でも女の発言は『』で、男の発言は「」であるというものもあった。二人が回ごとに交互に主人公を務める話で、主人公は『』で他は「」というのを見たときには、話の変わり目で混乱した記憶がある。
 さて、これらについて 48 ページで伊東氏は次のように述べている。

 小説の既成概念にとらわれず、自由に表現……これがケータイ小説の魅力なのだと思います。

 確かに面白い工夫であるとは思う。だが、それは別にケータイ小説の魅力ではない。ましてや既存の小説が「小説の既成概念にとらわれ」ているかというと、そうでもない。この点で既存の小説とケータイ小説を比較することはおかしい。
 どちらも、読みやすさのための工夫であり、その結果として印刷物の上では字詰めなどと同様に字の間の空白の取り方(感嘆符などのあとの空白など)であるとか、章や節の区切りのための行の間の空白であるとかがある。もちろん元は手書きで、そういう工夫がされていたのであろうし、現在の PC 上での小説でも踏襲されている。一方の携帯電話でも、読みやすさの工夫として、上記1. から 4. のようなことが行われているにすぎない。
 なので、ケータイ小説について「小説の既成概念にとらわれず、自由に表現」というのは少し違う。小説の既成概念を携帯電話上で十分に生かす方法を工夫すれば良いということにすぎない。少なくとも、この章で触れられている程度のことであれば、そうだろう。

 また、この章では頻繁に「リズム感」や「テンポ」や「ライブ感」という語が書かれている。読んだときに、これらを感じられるように書くのがコツだということが言いたいらしい。このあたりも“スピード感”に繋がる話のように思う。

 もうひとつ“超主観的”文章と本書で呼ばれているものについても記しておきたい。少々長いが、引用する。本書第 2 章 71 ページより。

 仮に“超主観的”文章と呼ぶことにしましょう。すべての登場人物がすべての場面に名前で登場することで、読者は登場人物の視点でものを感じ、見ることができるようになっている気がします。読者が常に主観的立場に立って、一体感を感じて作品を読むことができるのです。
「私」「彼」「彼女」という表現を使うと、ひょっとしたら読者は登場人物との間にある一定の距離感を感じてしまうのかもしれません。
 結果的に読者が登場人物に感情移入ができなくなってしまう可能性も……。

 代名詞を使って距離感を演出するのは、むしろ逆に読者が感情移入する対象を絞り込むために、使うことができる。それに、「私」に関しては距離を置くのではなく、なくすために使うことが多いだろう。
 なので少なくとも、代名詞の使用が原因で感情移入ができなくなることはない。
 ただし、私の少ないケータイ小説読み経験からで申し訳ないが、全員が名前で登場することで群像劇の様相をもつとは思う。すなわち、読者が誰にでも感情移入できる可能性がある。それで話が各人物ごとにバラけてしまわないのは、作者と同名の登場人物がいるなど、誰が主人公であるかが予め分かりやすくされているからではないかと思う。

 長くなってしまったので、そろそろ“スピード感”についてまとめて終わろう。
 103 ページから引用する。

 ケータイ小説の魅力のひとつは、“スピード感”。読者たちは「今度はいつ続きが読めるんだろう」とワクワクしています。その期待に応えるべく、書き手たちはスピードをアップさせて次のストーリーを更新させるのです。

 これが述べられている第 3 章において、具体的な更新頻度については毎日から週に一回や二回、月に二回などと例示されている。また一度に更新する量としては、SINKA さんがほぼ毎日に平均 3 〜 5 ページという具体的な数字をあげている。ここでいうページはケータイ小説のページだろう。400字詰め原稿用紙の枚数ではないと思う。ケータイ小説のいちページがどのくらいの量かは一定しないと思うが、多くとも千文字あるとは私の少ない経験からは思えない。
 つまりは少ない量を頻繁に出すのだろう。ここで思い出されるのが、上で引用した 39 ページの 3. である。以下に再度引用する。

3. 「会話文」に独白があしらわれ、説明的な文章が少ない

 ここでは後半の「説明的な文章が少ない」に注目しよう。まさにケータイ小説はこの通り、会話文が主体で展開することが多く、説明的な文章や描写を行う文章や読者の想像を導く文章、いわゆる地の文が少ないと思う。まあせいぜいが、会話と擬音が主体ということになる。念の為に述べるが、地の文がないと読者は想像できないと私は言っていない。導くというのが地の文によく課せられる役割であると私は思う。
 さて、この“スピード感”だが、なんだか作者と読者の会話のような気が、私はした。もっと正確に言うなら会話というよりもコミュニケーションなのだろうけれど、感覚としては会話だと思うのです。会話にしては読者からの発言が無い会話なので、変ではあるのですけれど。
 確かに、続きを早く読みたい読者に応えて作者が頻繁に更新するという点もあるとは思いますが、作者と読者の距離が近いことや 93 ページ「読者目線が共感を呼ぶ読者との一体感」冒頭にある、

「飾らない、普段着の言葉」を使うことにより、自然と読者目線になり、共感を呼ぶことは、前にもお話ししましたが、(略)

という点を含めると、なんだか会話のような気がしてならない。作者と読者という感じがしない。
 極言してしまえば、だからケータイ小説は小説ではない、ということにもなりかねないが、そこまでは今のところ言うつもりはない。保留といったところだ。ただし感覚としては、更新の頻度と分量が重要になってくる、小説が携帯電話に適応して変性したものであり、特徴としては会話に近いものを含む、と私は思う。
 だから、書籍化されたケータイ小説には全く魅力を感じない。