鼠と竜のゲーム

 まずは目次から引用する。

序文/ジョン・J・ピアス
スキャナーに生きがいはない
星の海に魂の帆をかけた女
鼠と竜のゲーム
燃える脳
スズダル中佐の犯罪と栄光
黄金の船が――おお! おお! おお!
ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち
アルファ・ラルファ大通り
コードウェイナー・スミス入門

 以上が収録されている。序文と入門以外が短編作品であり、入門は訳者の伊藤氏が書いている。最後に入門というのも不思議に思うが、それはそれとして。
 積読崩し仲間の秋山さんに薦められて読んだ。Web を探ってみると、人類補完機構という名称がエヴァンゲリオン人類補完計画の元ネタであるらしい。
 どの話にも派手なアクションや怒涛の展開があるわけではなく、もちろん人型決戦兵器が出てくることもない。しかし、本書に満ち満ちている大いなる嘆きとでも言えばいいのか、そうした感覚は、いったい何であろうか。
 通底しているもののひとつに、生物(人間)に対する分厚い不可能性としての宇宙の存在があると思う。「スキャナーに生きがいはない」や「星の海に魂の帆をかけた女」では、人間として生き続けることが不可能な領域へ、いかに人間でなくなることによって進出していったか、またその過程で、なお人間たらんと欲する人々を描いている。そのあとに続く作品では宇宙における存在となった生物(元は人間だが今は外見はともかく、果たしてそう呼べるのか)について描き、「アルファ・ラルファ大通り」ではついに宇宙は登場しなくなる。宇宙に対してきた(元)人間が宇宙とまみえる以前の存在に戻る、戻ろうとする話だ。これは結果について記されたものだろうと思う。
 決して宇宙と共に生きるという様子ではなかろう。宇宙と対峙しつづけ、そこに進出できたにしても、適応したとは言えないと思う。無理をしている。それが大いなる嘆きの源ではなかろうかと思う。
 各作品の冒頭に付されている短い解説にある〈人間の再発見〉というスミス氏の宇宙史上の出来事は、こうした不可能に挑むという目標を達成するために失われたものを復活させる動きなのだろう。この出来事についての詳しくは、他のスミス氏の著書を読めば分かるのだろうが、それらは現在のところ入手しにくいようだ。何とかしてほしい。もしくは図書館か。
 それにしても補完という言葉は、それほど一般的ではないと思うのだが、こうした訳語を充てられるような、訳元の言語にも訳先の言語にも通じた訳者の翻訳書をもっと読みたい。最後に収録されている「コードウェイナー・スミス入門」で補完機構という訳語に決める過程が簡単に記されている。

“補完機構”を主張したのは伊藤だが、もしピアスのいうように、スミスが“インストルメンタリティ”の語に宗教的な含蓄をこめているとしたら、“補完機構”は意訳もいいところだろう。しかし“媒介機構”“仲介機構”としたところで、宗教的なニュアンスがとりこまれるとは思えないし、浅倉がこうした訳語を積極的に支持したわけでもない。

 浅倉氏は「ただ“補完”という言いまわしに首をひねっただけ」とのことだが、こうして訳語を念入りに検討し、かつ安易に“媒介”や“仲介”に流れなかったこともまた、素晴らしいことだと思う。私の読んでいる本の種類のせいか、伊藤氏や浅倉氏を見習うべき訳者は他にも相当数居るように思う。とはいえ苦労をひけらかすことを評価しているわけではない。
 本書では少し珍しい読書体験ができたように思う。すごく楽しかったとか面白かったというのではないが、ずっと続きを読みたいと思いながら読めたし、入手できれば他の作品も読んでみたい。