洛中書問

「人生を完全にダメにするための11のレッスン」でご縁のあった高遠先生のブログや、そこを通して qfwfq さんのブログを拝見して知り、これはぜひ読んでみなくては、と手に入れたもの。
 前半が往復書簡であり、後半に吉川氏の論文と、両氏の最終講義の様子が収められている。吉川氏の論文「描写の素材としての言語」までは終戦の前後、1945年付近であり、同い年の両氏は40歳。最終講義と吉川氏によるあとがきは、その後30年あまり経った頃、あとがき冒頭で70歳であることが述べられている。
 このように長期の時間を置いているにもかかわらず、前半と後半で乖離感が全くない。両氏の翻訳に対する信念がずっと貫かれている証拠のように思える。
 内容は主に詩の翻訳についてである。大山氏はドイツ文学研究者、吉川氏は中国文学研究者。
 書簡を読み進めるにつれて興奮が増し、両氏の意見に対する自分の思考が広がり、それをまとめるために暫し本を置く必要があった。翻訳にはとても興味がある。実を言えば、翻訳そのものというよりは、現在の私の研究テーマであるところの、計算機による自然言語使用の実現に向けて、言語はどういったものかを考えるひとつの手段として、どのように翻訳は行われるのか、翻訳は実際はどのようなものか、ということに興味深い。
 しかしながら残念なことに、あとがきには大山氏が病気であるために、吉川氏のみがあとがきを記す旨があり、さらに、

(大山氏の)退官講義に引くゲーテの語に「感覚的なものを高貴な精神的なものに高めていく能力」、これこそ文学の基本的な、したがって初歩的な問題であるだけに、それを一から、そうして談笑を交えつつ、ほりおこし、論じあうことは、彼のような友人との間にのみ、私には可能である。

 とある。そして、大山氏は本書の出版年1974年に亡くなっている。この先を聞いてみたかったと強く思う。仕方が無いので、いずれ自分で考えてみることにしよう。
 両氏の意見を、ここでまとめて紹介するのも感想のひとつの書き方ではあろうが、ちょっと私の言葉でまとめてみたい。
 表現は支点であると思う。著者の思索の中に力点があり、読者の想像の中に作用点があり、それぞれの思索や想像の深さが、支点から力点や作用点までの距離に相当すると思う。力点‐支点間距離が長ければ、支点‐作用点間距離が短くとも、大きな働きをするし、力点‐支点間距離が短ければ、支点‐作用点間距離を長くすることは、なかなか難しいだろう。ふたつの長さが巧く釣り合った幸福な状態を生み出すには、良い著者と良い読者が必要であるように思われる。
 以上は、表現が著者と読者に共有されている場合に限定した話である。翻訳を必要とするのは、表現が共有されていない場合であり、翻訳者は表現に関しては仲人のような存在だと言えるであろう。著者の思索、読者の想像をそれぞれ知り、互いに表現という接点の無い両者を結びつけるのが翻訳者ではないだろうか。
 大山氏も吉川氏も、著者の思索を読者の想像へとより良く伝達することを第一義に置いているのは確かだと思われる。近年の、特に技術書などに目立つ、翻訳と呼ぶこともおぞましい日本語文が言うところの「正しい」翻訳とやらのような、辞書に掲載されている訳語のパッチワークとは、このことは全く異なる。字面だけのことではないのだ。
 では両者の違いはどこにあるのか。おそらく、大山氏は表現の差異によって伝達が損なわれる可能性を重く見ており、吉川氏は表現が差異を乗り越える普遍性を持つと信じているのではないかと、私は思う。
 だんだんと自分でも自らの思考が怪しくなってきたので、中途半端ではあるが、このへんで終わりにしたいと思う。なんだかんだと言っても、私はまだまだ読者としても著者としても素人であり青二才であるのだろうと、このまとまらないエントリが証明している。
 さて、久しぶりに長くなった。しかし、本書は素晴らしい。これだけ書いても、まだ少ないのではないかと思う。このあと「翻訳の日本語」「古典について」と読み進める準備ができている。言語については、考え出したら止まらない。