山猫
イタリアの話。それも歴史的な舞台なのだが、残念ながらイタリア史の知識が無かった。最終的にそれは訳者あとがきで概要を知ることができたのだが、序盤はともかく途中からはそうした知識が無くとも、あるいは作中から感じられる雰囲気だけでも、楽しむことができた。
その点では、訳者あとがきで述べられているように、歴史小説かと思われるのは物語の外枠に過ぎないだろう。そうして訳者は「運命愛」と滅亡の過程を、この作品の本題として挙げている。
とはいえ、やはり背景の歴史として両シチリア王国の滅亡があり、それとは一線を画しながらも、最後の王と重なる最後の“山猫”としてドン・ファブリーツィオが死んでゆくところに、運命だとか滅亡の過程が大きく浮き彫りになってくるのではないかと思う。だから、やはり歴史小説であるのだろう。だから、読ませる力があるし、楽しめるのだろう。
最後に付け加えておくと、訳文がどうも気になる。原語の文法をそのまま持ち込んで日本語表記したように感じられ、一文のなかでの単語同士の繋がりが分かりにくく、読み取るのに(あるいは読み慣れるのに)いささかの労力を要する。中盤以降は、慣れてきたのかすんなりと読み進められたが、それは短めの文が増えたからという気もする。
特に気になったのが、以下の文。文中の男というのはドン・ファブリーツィオについて表したものであり、1860年の章題がついた部分のもの。
四十五歳(年齢は後出と矛盾するが原文のまま)の男というものは、自分の子供が恋をする年齢に達したことに気づく瞬間までは、自分はまだ若いとつい信じがちなものである。
後出というのは、おそらく1883年の章における、死に瀕したドン・ファブリーツィオがほつれつつある思考の中で述べる次の文のことだろう。
〈いま自分は七十三歳、どうやらほぼその歳だけは生きたらしい、いや実際にそれだけ生きたのだ。多く見積もっても全体で二年か三年は〉
後者の引用でふたつめの文が分かりにくいのだが、これは前後から判断して、思考の渦に呑まれているということなのだろうと思う。
気にしているのは、前者の引用中の括弧内だ。確かに矛盾はあるが、しかし、前者のこの部分は四十五歳ほどの、程度の意味なのではなかろうかと思う。また、後者の年齢も、ふたつみっつほどは思い違いをしていてもおかしくない状況だと思う。それを、わざわざ四十五歳の男と訳し、また原文のままと言い訳をつけるのが、どうにも気に入らない。
そうはいっても、作品は面白かったし、この作品を日本語で読ませて貰えた点で訳業に感謝していることもまた事実である。
このくらいパワフルであってこそ、文学だよなあと、これはあんまり論理的でもなければ根拠があるわけでもないのだが、そう感じた。